めしばな編集長まいける
〜闘争の金沢カレー 第2章・金沢カレー五人衆の絆〜
※今回は調査報告書のため、一人称を「私」でお送りします。今回は長編読み物です。
第1章はこちら。
金沢カレーとは?

またお会いしましたね。編集長のまいけるです。
驚愕している。
金沢カレーをまとめようと思い立ってから、約1ヶ月。
毎昼食をカレーに切り替え、少しづつ調査データを集め続けた。
高カロリーな金沢カレー。腹に贅肉を蓄えながらの必死の調査。
ネットに転がっている情報も色々と収集し、なんとかまとめようと試みる。
しかし、この作業、思った以上に大変である。
まず、店の量が膨大だ。金沢はカレーの聖地と言えるだろう。
カレー屋を名乗る店が、飲食店の全体のパイに対して多いように感じる。
これらを選別するのが大変だった。その中でも、比較的地元民からも“金沢カレーの店だ”と支持を受けていると思われる店を選定した。
そして、もっと大変だったのは金沢カレーの変遷を理解することである。
店同士で複雑に絡み合い、かなりごちゃごちゃしている。金沢カレー年表らしきものは色々あるが、パッと見ただけでは何のこっちゃよくわからない。
そこで、もう少し簡単にまとまらないものか考えてみることにした。
金沢カレーとはそもそも一体どのようなものか。
『金沢カレー』と検索すると、Wikipediaに特徴が載っているので、そこから抜粋してご紹介する。
特徴
- ルーは濃厚でドロッとしている。
- 付け合わせとしてキャベツの千切りが載っている。
- ステンレスの皿に盛られている。
- フォークまたは先割れスプーンで食べる。
- ルーの上にカツを載せ、その上にはソースがかかっている。
- ルーを全体にかけて白いライスが見えないように盛り付ける。
なお、すべての店舗が上記の特徴を満たしているわけではない。
ふむ。特徴はたしかにこんなイメージだ。
思い返してみると、『金沢カレー』なんて言葉、聞くようになったのは最近のように思えるし、上記の特徴が知られるようになったのもつい最近のことだ。
金沢カレーのイメージなど、金沢民に定着していたとは言い難い状況のように思う。若い人ならいざ知らず、ある程度の年齢層になってくると、“そんなものがあったのか”レベルだ。
いつからこの言葉が出てきたのだろうか。
-まいける考察メモ①-
・『金沢カレー』の言葉の定着はいつなのか。
・金沢はカレーの聖地である。
『金沢カレー』という名称
思い返してみれば、金沢のカレー屋にスポットが当たったのが、私が高校生の頃だ。
Wikipediaによれば、2006年に、
“ご当地カレーの「よこすか海軍カレー」や「札幌スープカレー」の対比として「金沢カレー」という言葉が徐々に使われ始める。”
とあるので、時期的には丁度私の高校生の頃なので合っている。
当時ご当地ブームというものが起こりつつあった。
その時期に、高校生などの若い人の間で『金沢カレー』という言葉が徐々に浸透してきたのであって、大人達が『金沢カレー』という言葉や概念を認識するのはもう少し後だったと記憶する。
金沢民が金沢カレーを知るのは、テレビやメディアなどの外部からの情報によってであって、地元民の中で“金沢カレーとはなんぞや”をはっきりと言える人は少ないように感じる。
では、新しい店ばかりなのかと言ったらそんなことはなく、かなり古くからその店達は存在している。
父親世代の人達に店名を出すと、「ああ、あの店か。若いときはよく食べに行ったよ。」と言って、そのカレー屋の思い出を嬉しそうに語り始めるのだ。「なんて美味しいカレーなんだろうと思った」というのは良く聞く話で、やはり初めて食べた時の衝撃は、相当なものであったことが伝わってくる。
つまり、『金沢カレー』という名称や概念自体は最近になって提唱され、定着しつつあるものだが、店レベルでは、カレーの名店としてその名が知られていて、地元に古くから定着している店が多い。私の親に聞いてみても、若い時に食べた印象は“なんて美味しいカレーだろう”と思ったらしい。
何故大人になると食べなくなるのか。学生や若いサラリーマンなどは食べる人も多いが、未だに一部のカレーファン向けの店という感じは否めない。
そこはおいおい検証していきたい。
そんな金沢カレーは、2010年『ヒミツのケンミンショー』などで広く知られることになり、今回北陸新幹線の開業によってさらにメジャーな存在になりつつある。
北陸新幹線の波に乗って、金沢カレーをもっと掘り下げていくことを目的として、本検証を行う。
私はカレーマニアではないし、金沢カレーを本格的に食べ出したのは最近なので、今回の調査に関しては実際に行ってみることを前提として行っていきたい。
-まいける考察メモ②-
・金沢カレーの名称が定着したのはつい最近。
・カレーの名店は古くから確かに存在していた。
・父親世代(50代〜)が食べに行っている印象はない。
金沢カレーの店
「金沢カレーを名乗り、売りにする店、比較的認知度や歴史が長い」というルールで、金沢に存在する金沢カレーの店を、私の偏見と主観でザッと並べてみる。
井筒屋
インデアンカレー
うどん亭大黒屋
カレーの市民アルバ
キッチンユキ
ゴーゴーカレー
ゴールドカレー
ターバンカレー
てきさす
チャンピオンカレー
房’sキッチン
(50音順)
そして、こちらも見てみて欲しい。
金沢カレー協会なるものが存在するようである。
しかし、この協会、金沢のカレー協会を名乗ってる割に、
店が3つしか登録されていない。
うーむ。これは一体。
とにかく、複雑なことは後で考えるとして、わかりやすくするために金沢カレーの店を大きく2つに分けて考えることにした。
①FC展開も行っている大手系
ゴーゴーカレー、チャンピオンカレー、カレーの市民アルバ、インデアンカレー、ゴールドカレー、ターバンカレー
②洋食屋、和食屋として存在する個人系
キッチン・ユキ、てきさす、うどん亭大黒屋、井筒屋、房’sキッチン
まず、①のFC展開も行う大手系。
店舗数が多く、フランチャイズ展開を行っており、金沢市内だけでなく、県外へと進出をしている店も多い。客層は学生から若いサラリーマンが主体。男性客がほとんど。
カレーという食品の性質上、工場で大量に仕込むことも可能なため、各店舗に配達することが出来れば、フランチャイズ展開は行いやすいと考えられる。
基本のカレーに、トッピング等などのセットを券売機で買うシステムで、謂わばラーメン屋と似たような形態をとっている。ごく稀だが、ナポリタンなど、その他のメニューを揃える店もあるが、基本的にはカレー専門店の形をとっている。これは、全国カレーチェーン『CoCo壱番屋』をイメージしてもらえれば良い。
店の単価設定も安めに設定してあり、500円〜700円くらいだ。高級食と思われがちなカツカレーが恐ろしく安く食べられるのが魅力だ。
このようなFC展開を行う大手系とは別に、
②の街の洋食屋やうどん屋といった個人の店で、金沢カレーを提供する個人系。
昔ながらの店舗に馴染みの客層が集い、まさに地元密着という形で展開されている。
客層はサラリーマンや家族連れ、女性のグループ客など老若男女多様。
単価設定も少しだけお高め。800円〜900円くらい。洋食屋さん、うどん屋さんということを考えれば、至って普通の金額だとは思う。
洋食屋、うどん屋なため、当然他メニューも豊富。店で手仕込みのため、味も良い。洋食屋の味という感じがする。
これら2つはそれぞれに良い所を持つが、やり方が結構違うため、同列には語れない。
よって、分けて区別して考えたい。
-まいける考察メモ③-
・FC展開をする大手系
→カレー専門店
客層は若い男性が主体
安い
全国に有り
・うどん屋、洋食屋の個人系
→カレー以外にもメニュー有り
家族連れも多い
値段もそこそこで美味しい
地元密着
金沢カレーの系譜
金沢カレーの歴史は長く、その変遷は非常に謎に包まれいた。
しかし、2013年に地元ローカルテレビ局のHABの取材で作られた番組『北陸食遺産スペシャル』において、その変遷が非常にわかりやすくまとめられていた。この番組は実際に金沢カレーを創始した人達に深く関わってきた人物や、そのご家族に綿密な取材を行っているもので、実に秀逸な内容になっていた。この番組内容も踏まえ、変遷をご紹介したい。

この表は金沢カレーの変遷を表している。
様々な店舗展開をしている店達だが、ご覧のように、元々は1つの洋食屋から派生している。
その名も『レストランニューカナザワ』
『レストランニューカナザワ』は、公益財団法人である鉄道弘済会が、金沢駅東口に開業。昭和30年頃に創業し、現在の金沢フォーラスの所に店舗を構えていた。
その後、店舗から国鉄の食堂車へ移管され、国鉄が民営化されて食堂車が廃止される1987年まで、存在した。
ここでコックを務めた5人のチーフコック達が、それぞれ独立したり、店を構えるなどしている。その独立時にはお互いに店の開業手伝いを行うなど、とにかくこの5人の繋がりは深い。この5人衆が金沢カレーを作り上げてきた人々と言えるだろう。
現在の店名と、当時のニューカナザワにおける担当部門を記載をしておく。
田中吉和 『カレーのチャンピオン』洋食部門No.1
宮島幸雄『キッチン・ユキ』洋食部門No.2
今度忠 『カレーの市民アルバ 』洋食部門No.3
野村幸男 『インデアンカレー』和食部門
高田義教 『うどん亭大黒屋』喫茶部門→洋食部門
この5人が『レストランニューカナザワ』の流れを組む、金沢カレーの源流だ。
①チャンピオンカレー田中良和

この中で、一番最初に独立をして店を構えるのは、
『カレーのチャンピオン』創業者、田中良和さんである。
当時、洋食部門のチーフだったチャンピオン田中は、昭和36年に独立し『洋食のタナカ』を開業する。当時は洋食屋であり、カレー以外のものも手がけていた。
その後の変遷を経て、『カレーのチャンピオン』になる。
この変遷が実に奇妙なことになっているのだが、ここでは割愛し後ほど検証する。
金沢カレーを、一番先頭に立ってその努力とカリスマ性で押し進めて行ったのはこの人物だ。洋食屋からカレー一本に絞り、自分のカレーを作り上げていく彼は、まさに求道者でありチャンピオン。
ややこしいので、敬意を表して以下「チャンピオン田中」と呼ばせて頂く。
②インデアンカレー野村幸男

<インデアンカレーFacebookより>
次に独立したのが、『インデアンカレー』創業者、野村幸男さんだ。
昭和39年、和食部門の野村幸男がカレーの専門店の『インデアンカレー』を開業する。
洋食屋としてオープンした『洋食のタナカ』に対して、カレーの専門店としてオープンさせている。カレーの専門店ならば、6畳ほどの空きスペースで出来るだろうということで、専門店の形を取ったようである。
インデアン野村は、現在の金沢カレーの特徴にもなっている、ステンレスの皿、先割れスプーンを導入した人物らしい。またFC(フランチャイズ)展開を行ったのも、インデアン野村が初めてのようである。金沢カレーを専門店として始めたのは、実質彼が初めてだった。尚、FC一号店がその後、洋食屋の『てきさす』として独立をしている。
洋食屋がほとんどのご時世に、カレー専門店を作ってしまい、FC展開を行うなど、新しいスタイルをどんどん取り入れていっている。彼は謂わば、未開の地を開拓していくまさにパイオニア。
ややこしいので、敬意を表して以下「インデアン野村」と呼ばせて頂く。
インデアンカレー創業時、インデアン野村は和食の専門であったため、ニューカナザワの洋食の部門からある人物を引き抜いている。
これが『カレーの市民アルバ』創業者今度忠である。
要するに、自分の店を手伝ってくれと頼んだようだ。
今度忠さんは(以下アルバ今度)自分の店を持つのはかなり後になるが、この人物かなり人気者で、色んな店の創業に関わっているというのが面白いところだ。
彼の遍歴も面白いが、ここでは割愛。
③キッチンユキ宮島幸雄

<キッチンユキホームページより>
お次に独立したのは『キッチンユキ』創業者、宮島幸雄さんだ。
昭和41年、洋食部門No.2の宮島幸雄が『キッチンユキ』を開業する。
ユキ宮島は、チャンピオン田中の1つ下の後輩で、良きライバルでもあったらしい。また、親分肌の人物で面倒見が良かったようだ。チャンピオン田中が独立後は、ニューカナザワの洋食部門チーフとして弟子を愛情を持って育て、世に送り出している。チャンピンオン田中が先に独立したことに触発され、店を構えるに至ったようである。
尚、キッチンユキで40年修行した人物は、洋食屋『房’sキッチン』を創業している。
カレー専門店としてFC展開をしていく他の人物とは違い、あくまで洋食屋として地元密着型の店舗を作ってきた。金沢の洋食の歴史を語る上でもキッチンユキの意義は大きい。
彼はまさに洋食屋のプロ料理人で、地元を愛する大親分と言ったところか。
ややこしいので、敬意を表して「ユキ宮島」と呼ばせて頂く。
キッチンユキは創業当時はかなり忙しかったようで、開店時にニューカナザワ時代の後輩達を手伝いに呼んでいる。
その手伝いに行ったのは、チャンピオン田中、ここでもアルバ今度、そして『うどん亭大黒屋』の高田義教である。
④うどん亭大黒屋高田義教

<うどん亭大黒屋ホームページより>
他の人物と異なって親の後を継いだのが、『うどん亭大黒屋』後継者、高田義教さんだ。
大黒うどん高田は、昭和19年開業した『香林坊大黒屋食堂』の2代目で、ニューカナザワに修行に出されていたようである。“うどんは先代の親父が教えられるので、別業界の洋食屋に修行に出す”ということなのか、とても進んだ考え方の親父さんである。
2代目の大黒うどん高田は、元々喫茶部門のウェイターをやっていたそうだが、チャンピオン田中の独立によってユキ宮島がチーフに昇格した際に、洋食部門に配属となり、ユキ宮島に師事することになる。
そのユキ宮島からカレーを習得し、実家に戻る際にそのカレーの技術を持ち帰ったようである。
現在香林坊の店はないものの、『うどん亭大黒屋』をのれん分けして構えている。
尚、『うどん亭大黒屋』から『井筒屋』がのれん分けしている。
他の面々とは少し違う経歴を持ち、唯一和食の店を構える高田義教さん。うどんの技だけでなく、洋食の技も叩き込まれた期待の2代目は、まさにゴールデンプリンス。現在もひっそりとそのカレーが残っている。彼は万能だ。
ややこしいので、敬意を表し以下「大黒うどん高田」と呼ばせて頂く。
⑤カレーの市民アルバ今度忠

<カレーの市民アルバホームページより>
さて、上記に挙げた『カレーの市民アルバ』創業者、今度忠のご紹介。
既に敬意を表して「アルバ今度」と呼ばせて頂いてるが、この人の経歴は面白い。
まず、ニューカナザワでチャンピオン田中、インデアン野村の指導を受け、その二人が独立した後は、インデアンカレーでインデアン野村の修行を受けることになり、キッチンユキの開業時にはユキ宮島に呼ばれてその開業を手伝っている。
彼が自分の店を持つのはだいぶ後になってからで、昭和46年に弟の今度孝さんと共同で『アルバ小松店』を開業する。
弟の今度孝さんは、シベリア鉄道にのりヨーロッパに行き、2年間洋食を学んできた人物だ。この二人は協力してアルバのカレーを作り上げてきた。
その後、よくわからないくだりだが、小松の店は弟の店だったので、自分の店を鳴和にオープンさせている。
開店時はチャンピオン田中、ユキ宮島が手伝ってくれた。
アルバ今度は、大変な人格者だったようで、上記のようにインデアンに引っ張られたり、ユキ宮島の開業の手伝いに呼ばれたり、チャンピオン田中やユキ宮島が店が忙しく人材が不足した際には、若い人を何人か紹介している。どうもアルバ今度の元には人が集まるようだ。
驚きなのは、念願の自分の店であるアルバ鳴和店開業したにも関わらず、人材不足に悩むチャンピオン田中から直接アルバ今度に“うちに入って欲しい”という要請を受け、なんとアルバ鳴和店を他の人に任せて、チャンピオンカレーの工場に移ってしまうのだ。
アルバ今度は、チャンピオン田中の必死の説得に「男が男に惚れた」とこの時のことを振り返っている。
ニューカナザワのチーフとして、料理人達を指導した後、一番最初に独立をして金沢カレーの道を作ってきたチャンピオン田中のカリスマ性と、すべての店の手伝いに呼ばれているアルバ今度の人格者な面が伝わって来るすごい話だ。
すべての金沢カレーの店に関わるアルバ今度。その人望と献身的な人格、そして尚も現役でアルバカレーの工場に立ち続ける彼は、まさに金沢カレーの伝道師である。
-まいける考察メモ④-
・ニューカナザワは、鉄道弘済会が経営する食堂車が始まりだった。
・金沢カレーはニューカナザワのチーフコック5人衆が源流だった!
・それぞれが協力し合い、今の金沢カレー界を作り上げてきた。
・ニューカナザワにいた人達5人共が自分の店を構え、未だに残っている!
・金沢カレーは男達の努力と絆で出来ている。
調査報告書所感
今回は長くなったため、この辺で終わりたい。
金沢カレーの歴史は長く、深く、男達の絆が伝わってくるものだった。こんなに色々なエピソードがあるとは、驚いている。
ここで触れられてないチャンピオンカレーの謎の変遷と、金沢カレーのブランディング戦略について、次回はお伝えする。
その後、各店舗を実際に調査したものを皆さんにご報告したい。
次回もお楽しみに!

北陸カレー万歳―SPICE,MY LOVE 石川・富山・福井
- 出版社/メーカー: 金沢倶楽部
- 発売日: 2007/08
- メディア: 単行本
- この商品を含むブログ (2件) を見る
前回投稿分はこちら!
—————————————–
Twitter、Facebookにて情報発信中!
フォロー、いいねをよろしくお願いします!